ABOUT
プロフィール/自分史
杉浦貴之
Takayuki Sugiura
1971年愛知県西尾市生まれ、岡崎市在住。1999年28歳のとき、腎臓の希少がん(肉腫)宣告。腫瘍は巨大で悪性度が高く、両親には「早くて半年 、2年後生存率0%」と伝えられた。病床では「ホノルルマラソンのゴールでパートナーと抱き合い、翌日ハワイの教会で結婚式を挙げる」という夢を描き続ける。 左腎摘出手術後、化学療法2クール。再発予防のため、自己治癒力を高める方法を模索し、世界各国、日本全国を旅する。呼吸法を学んだことで、発声により体の回復を実感し、歌うことへ繋がっていく。 2008年、病床で描いていたホノルルマラソンと結婚の夢を叶え、2010年より、がん患者、家族、サポーターと行く「がんサバイバーホノルルマラソン」を主宰。 現在、命を唄うシンガーソングライターとして、命のマガジン『Messenger』編集長として、がんになる前より元気にトーク&ライブ、一般講演、学校講演、取材など全国を駆け回っている。 主な出演番組「奇跡体験!アンビリバボー」「誰も知らない泣ける歌」。2010~2019年「がんサバイバーホノルルマラソンツアー」を主宰。 2007年、1stアルバム『Life is strong』、2014年、2ndアルバム『Rebirth』、2019年、3ndアルバム『YELL ~あなたの命が輝きますように~』リリース。2011年、著書『命はそんなにやわじゃない』(かんき出版)を出版。
敏感だった幼少期
いい子になりたかった学生時代
就職・・・早く逃げたかった
まさかのがん宣告
決意
「余命宣告など、私は絶対に信じません。息子を信じます!」 そう医師に啖呵を切って診察室を出ていったといいます。親の信じる気持ちは僕の心の奥底まで伝わってきました。 当時共働きだった両親は、仕事を終えると毎日、車で1時間かけて見舞いに来てくれました。言葉ではなく、その姿から、まなざしから、二人の思いが伝わってきました。 「自分の命に代えてでも、貴之を助けたい!」 そして思いました。 「僕は無条件に愛されている」 それまでは条件を満たさなければ愛してもらえないと思っていました。テストでいい点を取れば、いい大学に入れば、いい会社に入って高い給料をもらえれば、愛してくれる・・・。 自分の生きる目的は、親の期待に応えること、親にとっての自慢の息子でいることだったのです。 長男の僕は「海外を飛び回る仕事がしたい」という夢をしまい込み、地元の高校、地元の大学をストレートで卒業。就職したのは、家から10分のところにある会社。誰よりも親孝行をしていると思っていました。 しかし・・・それは勘違いでした。 「がんになっても、親はこんなにも自分を信じてくれている、何もできずにいるこんな自分でも愛される価値がある、僕の回復を心から祈ってくれる人がいる」 そう思ったら涙が止まりませんでした。両親が病院を後にすると、いつも感謝の涙で枕をびしょびしょに濡らしていました。 「僕が生きているだけで、お父さん、お母さんは嬉しかったんだ。生きているだけで、お父さん、お母さんに幸せを与えていたんだ。生きているだけで素晴らしい、生きているだけで祝福されている。大丈夫!大丈夫だよ!僕は僕で良かったんだ」 親の信じる強い気持ちと無条件の愛が消えかけていた僕の命を救ってくれました。 「生きていることそのものが素晴らしい」 そう気付けたとき、心と体から力がストンと抜け、この現実に立ち向かっていくための新たな力が僕の中に宿りました。 ある日、夢を見ました。それは両親が僕の葬式を出している夢。変わり果てた僕の姿を見て、両親、家族が涙を流しています。その翌朝、両こぶしを握り締めて、力強く起き上がりました。 「こんなことは絶対にさせられない!このままで終われない!」 僕の心にスイッチが入りました。この病気を「絶対に治す」と決めたのです。大きくネガティブにふれていた振り子が、その反動で、同じように大きくポジティブに振れ始めました。 そして、「がんを治す」だけではなくて、「たった一度の人生、思いっきり好きなように生きてやろう!」と思いました。「未来の幸せ」のために、「今苦労する」のではなく、「今、幸せになろう!今を楽しむんだ!」と。
病床で描いた夢
(退院から3日後、友人の結婚式にて)
退職・放浪の人生へ
腸閉塞を発症
Messengerと歌
(串間市・石波海岸)
(宮崎市・青島の朝陽)
(Messenger創刊号 2005年1月29日発行)
『Messenger』を創刊したことが宮崎県で話題になり、新聞、雑誌、ラジオ、テレビでも取り上げられるようになり、まさかの講演依頼もいただくようになりました。 運命の日は訪れます。2005年7月、宮崎県延岡市のがん患者会で講演をさせていただいたときのこと。思い付きで講演の最後で、KANさんの『愛は勝つ』を替え歌にして、『がんに勝つ』と歌ってみたのです。みんなを笑顔にしたくて。 会場は涙と大きな笑いに包まれて一体となり、皆が拳を振り上げてこちらに迫ってくる勢いでした。な、なんなんだ!音楽ってすごい!間違えて「最後にがんは勝つ~♪」と歌ってしまった人もいて、「それはダメでしょう~」と、ものすごい笑いも起きました。な、なんなんだ!笑いの力もすごい! 1時間半一生懸命話したのに、たった3分の歌の感想しか言ってくださらなくて・・・(笑)。「歌が最高だった!すごく感動したよ!」と。嬉しいような、悲しいような複雑な気分でした(笑)。 自分の歌、イケるかも!僕の勘違いはさらに加速。以来、講演の最後には必ず、歌を歌うようになっていました。 調子に乗ってオリジナル曲『Life is strong』(作曲:Toshi小島)まで作り、以降、詩が次から次へとあふれ出てくるようになり、友人のミュージシャンが作曲してくれて、今では自分でも作曲をするようになり、講演に、オリジナル曲をミックスさせた‟トーク&ライブ“というスタイルを確立しました。 病と向き合った体験は共感を呼び、そのストーリーに沿った歌が心に沁みると評判の‟トーク&ライブ“は全国に広がっています。現在、3枚のアルバムをリリースしています。 中学3年生のとき、ふと友人に漏らし、すぐに自分で押さえ込んだ夢。「オペラ歌手になりたい・・・」。ジャンルは違いますが、人前で歌を歌うという夢が叶っています。ホノルルマラソンの夢
(2005年12月ホノルルマラソン完走後)
2008年12月14日早朝5時、ホノルルの上空に花火が打ち上げられ、たくさんの歓声の中、スタートは切られました。 抗がん剤治療中、脱毛、吐き気、倦怠感・・・生きる気力を失うほどの副作用の中、芽吹いた夢。 「ホノルルマラソンを完走し、ゴールには結婚するパートナーが待っていて、抱き合って喜び、次の日、結婚式を挙げる」 どんなに辛くても、夢を描くのは自由です。以来、どんな状況でも、僕は明るい未来を描き続けてきました。その夢がもうすぐ叶おうとしています。 手術から約9年、妻になる人と、ホノルルの街をずっと笑顔で走り続けました。どんなに苦しくても、笑いを絶やさずに。「逆境こそ楽しむんだ!」というスピリットで、苦しいときこそ笑い続けてきた僕の復活の道のりを、ホノルルの『42.195km』に凝縮したのです。 涙ではなく、笑顔のゴールと思っていたのですが、ゴールゲートをくぐる直前で、両手を広げて待つ彼女の手前10メートルで、涙が止めどなくあふれてきてしまいました。 彼女の顔を見たとき、これまでの辛かったこと、苦しかったことが一瞬で映像となって脳裏に思い出されました。 がんを告知されて絶望に打ちひしがれていたときのこと、手術の痛みに絶叫していたときのこと、抗がん剤の副作用に「死んだほうがマシ」と生きることを投げ出したくなっていたときのこと、度重なる腸閉塞に悶絶していたときのこと。 そのすべてがこの瞬間のためにあったのだと思えて、湧き出る涙を抑えることができませんでした。(2008年12月、ホノルルマラソン)
夢の続き、がんサバイバーホノルルマラソン
(仲間とすれ違うたびに元気をもらう)
(最終ランナーをみんなで迎えます)
チームメッセンジャー⇒ https://taka-messenger.com/tm/ (登録は無料です。ぜひぜひ仲間になりましょう)命は輝きたがっている
自伝『命はそんなにやわじゃない』(かんき出版)